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なく、炭坑地域でも坑夫の暴動となった。暴動発生市町村、187カ所。参加者70万人といわれるほどの大暴動であった。新聞各紙は当初、この暴動を「生活困窮者の反乱」として、好意的に報道した。このことがよけいに暴動を拡大した。政府は、これに対して軍隊を動員して鎮圧した。動員兵力11万、さすがの騒動も軍隊には勝てず、各地で収まった。この間、わずかに2週間ほどであった。これだけの短期間に全国に暴動が拡大したのは、新聞の報道もあるが、シベリア出兵に対する民衆の不満が鬱積していたからである。
政府は、この暴動に対して厳罰主義で対応した。逮捕者は全国で25000人以上にのぼり、そのうち8300人が刑事処分された。また、この暴動を扇動したとして、新聞社への処分も下った。暴動中には各社は発売禁止、記事差し止めの命令を受け、事件後、発行責任者の処分が行われた。暴動を好意的に報道し、政府の対応を批判し続けた「大阪朝日」は発行禁止処分と責任者処分に対して、紙面で全面謝罪する事によって廃刊を免れた。しかし、以後、新聞は1945年の敗戦まで、政府批判、軍部批判をすることはなくなってしまった。 シベリア出兵は、このように軍部の失敗を認め、国民へ真実を隠蔽し、怒った民衆を弾圧し、報道の自由を奪うといった結果を残すことによって、日本のその軍国主義の発展と侵略戦争への道を切り開いたのである。
3-2-6 ベルサイユ条約と国際連盟 大戦終了後1919年1月、パリのベルサイユ宮殿に戦勝国が集まり、敗戦国ドイツとの講和条約の内容についての会議がもたれた。名高いベルサイユ会議である。この会議で決定されたベルサイユ条約こそが第1次大戦後の世界を決定した、いわゆる「ベルサイユ体制」を作り出したのである。このベルサイユ体制こそが、第2次世界大戦を起こした大きな原因となったものであり、第2次世界大戦後の世界(戦後体制)の体制までに大きな影響を与えることになったものである。ドイツとの講和の内容が中心となったといえども、会議の重要課題は3つあった。一つはドイツの処理問題、つまり、敗戦国ドイツの国家体制、ドイツの植民地処理、賠償について、二つ目は植民地の再分割と独立問題、そして三つ目がロシアの社会主義政権対策であった。この会議に参加したのは22カ国、 << 上一页 [11] [12] [13] [14] [15] 下一页
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