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民地侵略戦争と、それの争奪戦争は19世紀以来ますます増していた。日本の日清、日露戦争もその一つであるが、列強間の対立はアジアで、アフリカで、ますます高まっていた。その対立はそのときの情勢に従って組む相手を変えていた。昨日の敵は今日の友というわけである。日本も同じで、あれだけの激戦を戦ったロシアと日本は、明治の末には日露協商を結び、友好国となっていた。ドイツに対するためである。ドイツ、この国は2度にわたる世界大戦を戦い破れた欧州の大国であるが、15世紀以来の国内の混乱によって、イギリス、フランス、オランダなどの列強諸国のように、国家統一と産業革命によって近代工業国形成を遂げることが遅れた国であった。アジアにおける後進工業国が日本であったように、欧州におけるそれはドイツであり、イタリアであった。当然のこととして、近代化達成を目指したドイツの選んだ道は富国強兵政策であった。明治日本が手本としてドイツを選んだのは、この様な共通点があったからである。ちなみに日本の明治の近代化を推し進めた伊藤博文と明治天皇をドイツの鉄血政治家ビスマルクとウイルヘルム1世になぞえるのはこのためである。
ドイツが侵略の手を伸ばしたのはバルカン半島であった。近年、ユーゴスラビア紛争で民族対立が吹き出し、長期の戦争となり、今もくすぶっているバルカン半島は民族のるつぼといわれるほどにいくつもの民族がひしめいている地域である。そして、この地域の歴史は古くはローマ帝国の支配に始まり、ビザンチン帝国(東ローマ)、オスマントルコ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国とその支配者を変えるごとに宗教もかわり、その結果、さまざまな宗教が入り乱れる地域となってしまった。各民族がそれらの宗教を取り込むことによって、民族対立が宗教対立の形を取るといった複雑な問題も抱えることとなってしまった。
13世紀以来続いた大国オスマントルコ帝国の支配が揺るぎだした19世紀後半、オスマントルコ支配下のバルカン半島では各民族の独立の気運が盛り上がった。それらの民族の後ろ盾として、この地域の支配権を獲得しようと乗り出したのが、セルビア人と結びついたロシアであり、ボスニア人と結んだオーストリア=ハンガリー帝国であった。オーストリア=ハンガリー帝国は やはり、この地域への進出をねらい、ロシアと対立関係にあったドイツを上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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