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めなかったのである。欧米列強は、すでに日本の朝鮮支配を認めていたのである。韓国政府はこの時、世界には存在しない物とされていたのである。この事件がもたらしたものは、世界各国の韓国への同情ではなく日本政府の怒りだけであった。事件を知った伊藤博文は激怒し、すぐの皇帝高宋に会うと退位をうながした。伊藤の脅かしに屈した皇帝は、ついに皇太子への譲位を認めたが、それを知った朝鮮民衆は日本への怒りを爆発させたのである。これが「義兵闘争」である。
朝鮮に対する日本の支配に抵抗する、朝鮮民衆の抵抗運動は、その初期から続いていた。1894年の甲午農民戦争はその代表的なものである。しかし、日本軍による徹底的な弾圧によって、以後、運動は沈静化していた。それが一気に爆発したのが義兵闘争である。1906年、第2次協約締結に反対して沖清南道で閔宗植が起こした蜂起では、農民1000人以上が武装し、日本軍に立ち向かい、一時、洪州城を占領し、日本軍を撃破した。
同じく全羅北道で崔益鉉が起こした武装蜂起も、1000人以上が蜂起し、日本軍を苦しめた。中でも最大のものは1907年、江原道で李麟栄が起こした蜂起で、1万人以上が参加し、ソウルに迫った。このようにして蜂起した朝鮮民衆は、7万以上、計1451回にも上ったのである。これに対して、日本軍は徹底的な弾圧で臨み、蜂起義兵に食料を与えたといった口実で、朝鮮各地の農村を焼き払い、民衆を殺した。圧倒的な日本軍の軍事力の前に義兵蜂起は鎮圧されたが、1910年の韓国併合まで各地で蜂起ののろしは揚がり続けたのである。
コラム 第2次日韓協約 -------------------------------------------------------------------------------- 朝鮮支配を決定づけたのは、朝鮮では「乙巳保護条約」と呼ばれる第2次日韓協約である。韓国政府の外交権を奪うことによって、決定的に韓国政府の実体を消滅させたこの協約であるが、皇帝、及び韓国政府高官たちは、これに対して抵抗した。伊藤博文は抵抗する彼らに対して、王宮を日本軍によって包囲することで脅し、それでも締結を拒絶した韓国政府高官を一人づつ、部屋に閉じこめ「賛成しなければ、命はない」と脅した。その上で再度会議を開かせ、上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页
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