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のための研究を行った結果、現在では、この事件は全くのでっち上げであり、えん罪事件であったことがわかっている。この事件の被告で、唯一戦後まで生き延びた、坂本清馬は1961年、最高裁判所に対して、この事件の再審査を請求し、事件の真相と明治政府の陰謀を明らかにしようとした。しかし、最高裁判所は、幾多の証拠があるにもかかわらず請求を棄却し、政府の責任も真相も闇に葬ろうとしたのである。
2-2-2 産業革命の始まり 日清、日露戦争の時代は、日本の産業革命の時代でもあった。それは明治日本の産業の発達グラフを見ても明らかである。なぜならば、日本の産業革命、つまり工業化と資本主義社会の確立が、政府主導による軍需産業(造船業、製鉄業、武器製造業)と製糸業、紡績業によってなされたからである。
二つの戦争は軍需産業をさらに発展させ、海外植民地の獲得は繊維製品の輸出をうながしたのである。つまり、戦争とそのための軍備増強によって日本の産業革命は行われたのである。しかし、そのことは、日本の初期産業が、前記のような産業部門に偏ったことにより様々な問題を残すことにつながってしまった。軍需産業の育成は、政府の巨額の資金援助によって行われ、その後、民間に払い下げられた。そのことは政府をバックにもつ巨大軍需産業が民間企業として育つことを意味した。
日本の産業構造が、軍需産業を中心にした、独占企業によって支配されていったのはこのためである。三井、三菱、住友、古河、久原といった、財閥形成がこの時期にされていったことは重要なことである。軍産複合体としてのこれらの財閥が政治に大きな影響力を持つようになったことは、後の日本の侵略戦争の大きな原因にもなったのである。このようないびつな産業の発達は、決して日本の国民の生活を向上はさせなかった。軍需産業の工場で働く労働者の生活は悲惨なものであったし、輸出用の生糸を紡ぐ、製糸工場は若い、女子労働者の劣悪な労働によって支えられていたのである。産業革命による工業の発達は国民の生活を向上させなかったばかりか、農村の荒廃をも生み出した。
輸出用生糸の増産のために、日本の農村地帯では養蚕が奨励されたが、その値段は国際市場に左右され、生糸相場が下がるたびに、農民たちは辛酸をなめたのである。広汎な産業部門の発達と、そ上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页
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