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階では無理であった。日本政府は、勧告に従い、遼東半島を清国に返したのである。しかし、国民はそうはいかなかった。日本国内は、ロシアに対する怒りであふれた。反ロシアの感情は国内に満ち満ちた。有力なジャーナリスト、三宅雪嶺は新聞紙上で有名な「臥薪嘗胆」を書いた。今は屈辱に耐え、いつの日かこの屈辱を晴らすのである。そのためには、軍備を整え、ロシアとの戦争に備えなければならない。日本政府も国民もこの一点に集中したのである。そのことは、日清戦争で清国から得た賠償金の84%が、軍備拡大のために使われたことからも分かるのである。日本国内の反ロ感情は、朝鮮国情勢においてもますます高まっていった。
日清戦争の勝利によって、清国の朝鮮国における影響力を排除した日本は、その後、朝鮮国に対する干渉をますます強めた。親日的政府を朝鮮国に立て、日本の影響力を増す政策を進めさせた。しかし、なかなかうまくはいかなかった。特に、3国干渉が起きて以後、朝鮮政府は、日本のロシアに対する弱腰を見ると、ロシアへの接近を強め、日本のいうことを聞かなくなった。また、それを機に、反日的であった王妃、閔妃一派が政権に復活するとそれはますます顕著となった。日本国内には閔妃に対する反感が高まっていた。こうした中で起きたのが“閔妃暗殺事件”である。一国の王妃を白昼堂々と他国の高官が殺害するという前代未聞の大事件であった。以下がその経過である。
1895年10月8日の早朝、50人ほどの日本人が、軍人を連れ、日本刀を抜いて、突然朝鮮王室の王宮(景福宮)を襲い、警備兵を殺し、宮殿内に押し入り、止めるものを切り殺し、王妃の寝室を襲い、王妃とともにお付きの女官も斬り殺し、王妃の死体を王宮の庭で焼き払った。その後、血のついた日本刀を抜いたまま、王宮を出て、意気揚々と道路を歩いて帰った。この事件の一部始終は二人の外国人によってみられており、(アメリカ人の技師、ロシア人の軍人)後に外国に知らされ、外国の新聞で大きく報道された。このため世界の国々が日本を批判した。日本政府は世界の世論を納得させるために一応、この事件の首謀者と見られる人々を捕まえ、裁判にかけた。広島で行われたこの裁判は結局“証拠不充分”ということで首謀者全員を無罪とした。
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