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ったからである。日英同盟によってロシアとの戦争への道が開かれたとはいえども、ロシアは世界一の陸軍国であり、世界3位の海軍も併せ持っていた。つまり、世界の大軍事国家だったのである。それに対して、日本は軍隊の近代化を急いだと言っても、世界レベルではまだまだ中学生程度でしかなかった。それに、対ロシア戦実行にかかる戦費は巨額であった。財政的にも全くめどが立っていなかったのである。こんな状態の日本が対ロシア戦を実行しようとしたのには様々な計算があったからである。まず、戦場となる満州はロシア本国中心より遙か遠くにあった。満州にロシアは大軍をおいていたといえども、それを補給するには多くの日数を必要とした。ロシア海軍の主力は遠く北ヨーロッパにおり、それが日本海に出撃するには半年はかかった。また、ロシア国内の政治情勢も日本には有利であった。ロシア王室による専制支配は揺らいでいた。貴族たちの対立、農民、労働者階級の中には革命の機運が生まれていた。ロシアは十全の備えを持って戦争を戦えない状態でもあったのだ。日本がこの戦争を有利に戦うには、ロシアが戦争の体制を十分に整える前に叩き、有利な条件で講和を結ぶことであった。ただし、それはロシアが講和を望んだ場合である。もし、ロシアが戦争を最後の決着まで戦う意志を見せたなら…それは日本の敗北を意味した。緒戦に全力を注ぎ、満州のロシア軍を徹底的に叩き講和する、このために日本は対ロシア戦の作戦を練ったのである。早期の講和はイギリス、アメリカが仲介となることを引き受けた。
講和の内容は、朝鮮における日本の支配権をロシアに認めさせることであった。満州の権益まではロシアに求めることはできないと踏んでいた。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、そのための場所まで用意した。アメリカ東海岸のポーツマスである。後は先制攻撃である。
戦端は1904年2月8日、9日の両日、満州の旅順港外に停泊中のロシア軍艦と朝鮮仁川港に停泊中のロシア軍艦への攻撃によって開かれた。いずれも翌10日のロシアへの宣戦布告前の攻撃であった。
緒戦において日本が全力を傾けたのが、満州におけるロシア軍の根拠地であった旅順港攻撃であった。ロシアは、三国干渉によって日本が清国に返還したこの港を清国より租借し、軍事基 << 上一页 [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] ... 下一页 >>
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