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な抵抗の前に戦況は一進一退を繰り返し、12月になって何とか203高地を手に入れたのである。
日露戦争の趨勢を決めたこの203高地の戦いは、日本側の1万7000名もの死傷者によっての勝利であった。ロシアの近代兵器の前に突撃を中心とする白兵戦で臨んだ日本軍の戦法は、大量の死傷者を出したために、その後、総司令官乃木希典の責任問題ともなった。
203高地を制した日本は、そこに国内から移送した28サンチ榴弾砲12門を据えると、旅順港内に停泊中のロシア軍艦を砲撃し、そのすべてを撃沈した。そして、次に旅順要塞内のロシア軍に対しても巨砲の砲弾が降り注いだのである。巨砲による攻撃と相まって、要塞に対する正面攻撃も勢いを増し、1905年1月1日、ついに旅順ロシア軍総司令官ステッセル将軍は降伏し、旅順要塞は日本軍に明け渡されたのである。この旅順攻撃戦に費やされた日数155日、日本軍の総兵力13万、死傷者6万、内、死者1万5000名という多くの犠牲者を出したのである。
旅順要塞攻撃戦に続いて行われたのが「奉天会戦」である。旅順後方の満州ロシア軍が緒戦の敗戦後、補強を続け、大軍となっていた。これに対する日本軍の戦いは一進一退を繰り返していた。この戦況を打破するために、旅順戦参加の日本軍が北上し、満州日本軍と合流して、ロシア軍と戦ったのが奉天会戦である。ロシア軍32万、日本軍25万の計57万という大軍が相対したこの戦いは、第1次大戦まえの最大の会戦となった。ロシア軍の増強に焦りを感じた日本軍は十分な用意もなくこの大会戦に臨んだ。戦況はまたも一進一退を繰り返したが、会戦の緒戦において日本軍の作戦が功を奏して、ロシア軍主力の包囲作戦が成功しかけた。これを見たロシア軍総司令官クロパトキン将軍の再びの後退作戦に、2週間にわたった会戦も膠着状態となった。後退し、兵力温存を図ったロシア軍を追撃し、撃破するだけの力は日本軍にはなかった。砲弾を撃ち尽くしていたのである。戦力をすべて使い尽くした日本軍ができたことは、占領地にとどまることだけだった。もしこのときにロシア軍が総反撃に転じていたら、日本軍は全滅していたと言われる。しかしどういう訳か、クロパトキン将軍はそれをしなかったのである。奉天会戦における日本軍の死傷者7万、ロシア軍死傷者6万行方不明者3万であった。
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