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った。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって,一時国交が絶えていた両国は,江戸時代初期の徳川政府の謝罪によって,良好な関係が復活した。 江戸時代には,将軍の代替わりがあると,朝鮮国から「朝鮮通信使」と呼ばれる使節が日本を訪れた。計12回に及ぶ、使節の来日は、毎回400~500人の大使節団で,政府の正使だけでなく,多くの朝鮮芸術家,学者,職人を伴っており,さながら,文化使節のようであった。迎える日本側も,使節来日の1年以上前から,歓迎の準備を整え,来日時には,その道々で大歓迎の式典が催された。日本民衆も同じで,使節一行を一目見ようと,道々は人の波で埋め尽くされた。宿泊所には,日本じゅうから,様々な分野の芸術家や学者が集まり,訪問した。朝鮮語はできなくとも,両者は漢文で交流し,日本側は,進んだ学問や技術を朝鮮側から学んだという。ここには,蔑視の思想など微塵もなく,あるのは相互の尊敬と信頼だけであった。このような関係が変化し,壊されていったのは,明治になってからである。 両国にとって,悲しい歴史が始まったのである。
2-1-2 朝鮮への侵略政策の始まり 征韓論による,政府の分裂からわずかに2年の後の1875年(明治8年)5月25日、鎖国政策を続けていた隣国、朝鮮国に対して、明治新政府(日本政府)は、軍艦“雲揚"をはじめとする3隻を派遣した。まず3隻は、釜山の港に強硬に入港すると、"演習"と称して、毎日大砲をぶっ放した。驚いた朝鮮政府が抗議したが、聞き入れず、ますます激しく大砲を撃った。その後、3隻は、朝鮮国の沿岸を大砲を撃ちながら北上して、9月20日、朝鮮国の首都"ソウル"の入り口である"江華湾"に強硬入港し、碇を下ろした。びっくりして見守る朝鮮政府と首都を守る"江華島守備隊"(朝鮮の軍隊)の前で、日本軍はボートを下ろし、平然と湾の測量と湾に入り口にあった、朝鮮守備隊の砲台を偵察し始めた。朝鮮守備隊は"警告のために空砲"を一発撃った。すると、この空砲をきっかけに日本の軍艦が一斉に大砲を撃ち、攻撃を開始した。この攻撃によって、朝鮮守備隊の砲台は破壊され、逃げ惑う朝鮮兵は狙い撃ちにされ、殺された。日本の軍艦は戦利品として、朝鮮軍の大砲38門を奪い、日本に帰っていった。
この事件について、日本政府は「水を求めて、たまたま朝鮮国に上陸したとこ上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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