|
|
|
見なされるために,日本政府が取った政策の一つが,朝鮮国や清国に対する政策でもあった。朝鮮国を開国させることは、日本の国力を示すことでもあった。アジアの隣国に対しての強力な外交政策は,日本を一人前の国と認めさせることにもつながった。一方で,文化的にも遅れた国ではないことを示すために,明治政府がとった政策が“欧化政策”である。文化の面で,欧米の真似をすることである。政府は,鹿鳴館という,欧風建物をつくり、ヨーロッパ音楽にヨーロッパダンスでの舞踏会を開き,欧米の外交官,商人を招いた。日本政府の要人や貴族達は,洋風のドレスやタキシードを着て、社交ダンスを踊り,招待した,欧米外交官の前で精一杯の文化国家ぶりを演じたのである。
しかし,条約改正は,このような「文化国家ぶり」や「強行外交政策」からは生まれなかった。欧米諸国,特にその代表でもあったイギリスのアジア政策の中での日本の役割から生まれたのである。イギリスにとってのアジア政策とは,対ロシア政策であった。後発の工業国として出発したロシアは、自国の発展のために,南方への進出を目指していた。ロシアの南下政策である。それは,黒海地方であり,中央アジアのアフガニスタンであり,中国北方の満州であり,日本の北方,千島,樺太であった。この事は,その地方での勢力拡大を目指していたイギリスとの衝突を意味していた。それが,クルミア戦争であり,アフガニスタン戦争である。
東アジアにおけるロシアの南下を防ぐためには,中国北方、満州へのロシアの進出を防ぐことであった。このために利用できる国が日本であった。日本は,北方地域でロシアとぶつかっていた。また,朝鮮を巡って,清国とも衝突していた。朝鮮国を日本の支配におくことは,そのそとにある満州へのロシア進出を食い止めるための壁になるはずである。朝鮮を押さえ,満州を日本が支配することが必要であった。ただし,日本とイギリスは,友好的でなければならない。決して,日本一人に,その地域の利益を得させてはならないのである。日本の役割は,あくまでも,ロシアに対する壁なのである。これは,イギリスの同盟国である,アメリカにとっても同じであった。このイギリス,アメリカと日本との関係が,その後に東アジア情勢を決定していったのである。朝鮮国を巡る,日本と清国との対立の激化上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
|
网友评论:日本近現代史(日文)之六(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
|
|
|
|