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ず、日本社会の真の民主化を求める「民主主義革命」の様相をとるようになったのである.幕末の民衆の解放を求めるエネルギーがここにきて爆発したのである。
ここにいたって、明治新政府はことの重大性に気がついたのである.「ほっておけば大変なことになる」真の革命が起きるかもしれない.それは、薩摩、長州出身の明治政府中央にとってもっとも恐れることであった.また、それは板垣をはじめとする自由、民権運動の中心人物たちのとっても同じであった.ここに、明治政府と民権運動中枢との妥協が始まり、民衆の民権運動との乖離が始まるのである.政府は、民権運動に対して言論弾圧をもって応じた.しかし、運動の広がりはおさえることができなかった.政府内でも、これへの対応をめぐって対立が生じた。1880年、ついに政府は、10年後の1890年を期して、国会の開設と憲法の制定を行うことを国民に宣言した.
自由、民権運動はこの後、国会開設に向けて、運動を転換させていくことになった.
コラム 自由民権運動 -------------------------------------------------------------------------------- 自由民権運動は、日本初の民主主義革命運動であった。しかし、それは明治政府内の権力闘争がきっかけであった。板垣退助をはじめとする民権派のもと参議は、野に下ることによって、民衆の支持をバックに政府内での権力を握ろうと考えていた。ところがそのような思惑とは裏腹に、民衆の自由に対する欲求は全国的な民権運動と広がりとして現れた。慌てた政府は、板垣らの抱きこみを図った。板垣を参議に復活させ、要職につけたのである。本来、これを断るはずの板垣は、これを受け、政府に復帰した。民衆に対する裏切りである。板垣は、再び政府と意見が合わずに下野するが、2度、政府に復活している。板垣を中心とする、自由党民権派が後に、民衆レベルの民権運動の盛り上がりについて行けなくなったのは当然のことであった。自由党に見放された、民衆の運動が孤立し、過激に走らざるを得なかったのはそのためである。
自由民権運動は日本のその後の社会運動に大きな影響を与えることとなった。自由を求める運動は、女性解放の運動とし上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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