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sp; 自由民権運動が政党の結成と憲法試案作りに向かっている時に、地方では自由党に結集した人々による運動が先鋭化していた。地方の農民を中心とした運動は、地方の役人の不正に対する戦いや地租に対する不満として広がっていた。また、地方の政府に不満を持っていた不平士族もこれに加わっていた。彼等にとって、明治維新とは地方官吏による支配と搾取の拡大であり、不平等な待遇であった。これらの不満は武装蜂起となって爆発した。
1882年、福島では、政府によって派遣された県令(知事)が、農民を道路工事に強制的に動員したことに反発した農民が一揆を起こした。福島事件である。もともと、この県令は福島地方の自由党員を言いがかりをつけて逮捕し、自由民権派を弾圧していたのである。県令と政府はこれを警察権力を使って、徹底的に弾圧した。続いて、同じような事件が次々に全国で起こった。中でも重要なものは、秩父事件である。
1884年埼玉県秩父地方では、江戸時代から養蚕が盛んであった。しかし、世界的な不況の影響で、生糸の輸出が激減し、秩父の農民の生活はどん底に落とされた。生活の困窮した農民達は「秩父困民党」を結成し、借金の棒引きや小作料の減免などを求めて武力蜂起した。
この蜂起を指導したのが、自由党の流れを汲む、農民民権家たちであった。一万人にも達した蜂起農民は、秩父地方から役人や警察官を追い出し、秩父の独立を宣言した。総理に選ばれた中心的指導者、田代栄助は「自由自治元年」を宣言し、高利貨しや地主から、借金の証文を奪い、焼き捨てた。この日本初の農民共和国も、政府の派遣した軍隊によってわずか数日で崩壊し、指導者は処刑された。
このような、地方での農民を中心とする、自由党系民権派の実力行動に対して、板垣を中心とする自由党は対応できず、ついに1884年10月、自由党を解党してしまったのである。このように、自由民権運動が民衆の中で、真の自由、平等を求める運動へと展開していった一方で、中央政治は、国会開設、憲法制定へと向かっていったのである。これは、その後も長く続く、政党政治家と民衆運動の乖離の始まりとなったのである。
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