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た。
これが発覚し,大井らが逮捕されたのがこの事件である。当時の朝鮮は,日本の朝鮮に対する干渉から,排日,民族主義的勢力が力を増していたため,日本国内では,この勢力を,日本の利益にならないとして,排除しようという策略が政府を中心に謀られていた。これに同調したのが,大井らだが、大井のような急進派ですら,隣国の朝鮮民衆の自由,民権は頭になかったのである。民権派も一皮むけば、民族排外主義であり、対外拡張主義派であったのである。そのことは、後の,日清,日露戦争でますます明らかになるのである。
1-3-3 大日本帝国憲法の制定と教育勅語 自由民権派の分裂と混迷の中で,政府は着々と国会開設と憲法制定の準備を進めた。政府は,伊藤博文をヨーロッパに派遣すると欧米諸国の憲法と議会のあり方を研究させた。伊藤が日本の模範として研究したのは君主権の強いドイツ憲法であった。伊藤は帰国すると,ドイツから法律学者を招き,ドイツ憲法をもとに,日本の憲法草案の起草を進めた。
一方で,国会をイギリス流の衆議院と貴族院の2院制とし、華族令を制定し,これまでの華族と維新の功労者に新たに、公,侯,伯,子,男の5段階の貴族の位を与え,貴族院議員とした。また,天皇の地位を安定させるために,天皇家の財政基盤確立のために,日本の山林のほとんどを占める官有林を天皇家所有とし、佐渡,生野などの鉱山の所有権および,日本銀行や大企業の株の多くも天皇家所有とした。こうして,天皇は日本最大の地主となり,世界一の財産家となった。このようにしたうえで,政府は1889年2月11日、「大日本帝国憲法」を発布したのである。この憲法は,明治天皇が制定し,国民に与えた憲法という形をとった欽定憲法であった。
アジアで最初の憲法となった(トルコ憲法が先であるとの見解もある)この憲法であるが,その中味は,「天皇主権」を法律的に確立した以外の何物でもなかった。この事は,明治維新と呼ばれる「日本の近代革命」が、フランス,イギリス,アメリカのそれと比較して,決して人民の民主的権利を確立した物でなく、天皇権力を強化し、その権力の基に上からの強力な近代化(富国強兵政策による、軍国主義化)を実現しようとした上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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