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大限発揮できる仕組みを作ったのである。
憲法の発布と同時に政府は,教育勅語を天皇の名で発布した。これは、国民の教育の基本的考えを示したもので,内容は忠君愛国を基本思想とし,天皇のため,お国のために生きることを子供達の教育の目標とすることを示した。以後,1945年の敗戦まで,教育勅語は,日本の公教育の指針となりつづけたのである。いや,現代日本でも,事あるごとに,復活が叫ばれるほどの影響を日本社会に残したのである。
このようにして,国民の意識からも,人民主権の意識を消し去ろうとした上で,1890年,第1回の衆議院選挙が行われた。制限選挙によるこの選挙での有権者は,実に人口の1%ほどしかいなかった。しかし,旧自由党の流れを汲む、立憲自由党と改進党の反政府派(民党と呼ばれた)は積極的な選挙戦を繰り広げ,171人の当選者を出した。これは、政府派の129人に対して,優位を占め,過半数を制したのである。以後,議会において,民党と政府の激論が戦わされることになったのである。政府が民衆の意見をいかに押さえようと,策をめぐらしたにもかかわらず,国会の成立は,一定程度の民衆の意見を聞かざるを得ないことになったのである。日本にわずかではあるが,民主主義の風が吹いてきたと言ってもいいだろう。
コラム 憲法発布 -------------------------------------------------------------------------------- 1889年2月11日、憲法発布の日は,東京では政府の祝典もあり,町じゅうがお祭り騒ぎに浮かれた。民衆は,憲法の内容も知らないまま,ただただ,めでたいと騒いだのである。この光景を見たドイツ人医師ベルツは日記に「…滑稽なことに,誰も憲法の中味を知らないのに,騒いでいる」と書き,日本人のおろかさを嘆いているのである。事実,民衆の間には,憲法の発布を「けんぷ(絹布)のはっぴ(法被)が配られる」とのうわさが流れた。民衆にとっては,憲法の中味など程遠いことだったのである。これは,いかに政府が,憲法の精神とその内容を民衆に知らせなかったかの表れであり,愚民政策の典型であったと言って良い事例である。
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