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1-2 明治維新 1-2-1 明治新政府の成立 薩摩、長州を中心とした倒幕派は江戸無血開城を果たすと、東北、北海道の幕府勢力との戦いを継続しながらも、新政府樹立の準備を進めた。1868年3月、明治天皇は「五箇条のご誓文」を発し、新政府のあり方を国民に示した。この内容は、議会を作ることや、民意を尊重すること、身分制度を廃止すること、国を広く外国に開くことなど、きわめて民主的なものであった。
しかし、一方でキリスト教の禁止、農民の離村や強訴(役人に不満を訴え出ること)の禁止など、江戸時代の政策を受け継ぎ、政策の矛盾もさらけ出した。 しかし、新政府の制度作りは進んだ。王政復古により、新政府は、天皇を中心とした太政大臣、右大臣、左大臣が政府の中核となる1000年以上も前の朝廷政治を形式的には復活した。
これらの役職は、伝統により公家がついたが、政府を補佐する者として、参議職が設けられ、、攘夷運動以来、倒幕の戦いで活躍した、薩摩、長州の重要人物たちがその職についた。
こうすることによって、形式的には、朝廷政治の形を取りながら、実質的は、薩摩、長州出身者が政治を動かす体制を作ったのである。天皇を利用して幕府を倒した以上、この形式での新政府をつくるしかなかったのであるが、そのことが、結局、現在までも日本の政治のあり方に大きな影響を残すことになった。しかし、天皇の存在を国民統合の手段として使いつづけるという政治システムは、きわめて有効に作用しつづけたのである。
コラム 薩長政府 -------------------------------------------------------------------------------- 明治時代を通じて、参議職は薩摩、長州出身者がほぼ独占を続けた。そのために、明 治政府のことを「薩長政府」と呼び、その専横を非難する声は高くなった。五箇条のご誓文で、民主的な政府の設立を宣言したにもかかわらず、内実はこうであったために、幕末に薩摩、長州とともに戦った土佐藩、肥前藩出身者の中から、新政府批判が起こり、民衆の不満とともに、自由民権運 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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