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教育の必要性が認識されるようになり、いっきに就学率が向上していくことになったのである。ちなみに、男子の就学率は当初より高かった。それは、江戸時代から、日本の男子の教育は高い水準にあったからである。江戸時代の庶民層の教育機関であった寺子屋への就学率はかなりなもので、農村においても男子の多くは、そこに通い、読み書き、そろばんを習った。そのために、江戸時代の男子の識字率は80%に近かったと見られる。これは、当時の世界では断然トップの率で、その意味では、日本は世界一の教育国であった。この伝統は、現在でも続いているといっていいだろう。日本人の男子にとって、今も昔も教育を受けているかいないかは、その人間の評価の大きな基準となっている。
コラム 財閥 -------------------------------------------------------------------------------- 殖産工業政策によって作られた国営工場は、後に民間に安く払い下げられた。この時に、政府と密着し、払い下げを受けて、それを基礎にその後日本の中心的企業として発展していったのが、三井、三菱、住友といった財閥である。軍需産業や、植民地での企業経営などで更に発展した、これらの財閥は、第2次大戦後の財閥解体によって解散させられたが、実際には今も日本経済に大きな影響力を持ちつづけている。特に、三菱は、戦前も、戦後も最大の軍需産業として君臨している。
1-2-3 国境の画定 明治新政府が、前記の政策のほかに早急にしなければならなかったことがもうひとつあった。それは日本の国境を画定することだった。なぜならば、江戸時代までの日本には、きわめて不明確な国境線があったからである。それは、北海道とその周辺の島々の帰属についてであり、九州南方の琉球列島についてであり、小笠原諸島であった。北海道は、江戸時代には松前藩の領地とされていたが、実際には、アイヌ民族の人々が住み、独自の生活様式と社会を形成していた。アイヌの人々は、松前藩によって支配され、税を払わされていたが、松前藩の実効行支配は、北海道の海岸周辺にしか及んでいなかった。また、北海道東部の択捉、国後島、および、千島列島、北部の樺太島については、ロシアと再三、その領有をめぐっ上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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