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1 日本の近代国家への歩み 1-1 幕末の日本 1-1-1 黒船来航 1853年6月3日午後5時、ペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍の軍艦4隻が江戸湾に現れた。有名な「黒船来航」である。天気は快晴、夕暮れをひかえたが初夏のまだ明るい空の向こうには霊峰富士が遠望できた。「Oh, Mt.Fuji,beautiful!」とペリーが言ったかどうか分からないが、この事件がその後の日本の150年を決定する大事件になったことは確かなことである。日本の近代の幕開けはこのときから始まったのである。 アメリカ軍艦は、戦闘体制を整えると、浦賀沖に投錨した。浦賀奉行、中島三郎助はすぐに小船を出し、旗艦サスケハナ号に出かけると、司令官ペリーに対し、日本では、外交交渉は、すべて長崎で行っているので、長崎にいくよう要求した。しかし、ペリーはこれを断り、アメリカ合衆国大統領フィルモアから日本国皇帝へあてた国書を受け取らない限り退去しないとつげ、要求が受け入れられないならば一戦に及ぶと脅した。当時の日本とアメリカの武器の性能は大人と子供の差ほどあった。もし、アメリカ側が艦砲射撃を行えば、江戸の町は廃墟と化しただろう。驚いた中島は、江戸へと早馬を走らせた。知らせを受けた日本政府(幕府)もうろたえるばかりだった。幕府の中心人物、老中阿部正弘は、結局、国書を受け取ることにした。国書には、「日本が鎖国を止めて、アメリカ合衆国と貿易を行うこと。合衆国の船が、日本近海を航海中の一時避難や、食料や水、燃料を補給するために、港を一箇所開くこと」が要求されていた。
ペリーは、日本政府に対して即答を求めた。しかし、日本は国是としてきた鎖国を止めることなど、大きな問題をつきつけられ、即答はもちろんできなかったし、満足な討論もできなかった。阿部正弘は、1年後の解答を約束し、ペリーに退去を願った。ペリーは、この申し入れを受け入れ、江戸湾を後にして、香港に向け出港した。
これが、事件のあらましである。日本国民はこの事件を「上喜撰(蒸気船) たった4杯(隻)で 夜も眠れず」と川柳でからかった。上喜撰とは、江戸時代の高級日本茶の銘柄である。この茶を4杯、(つまり4隻、船の数 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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