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正弘は、意見をまとめることができなかった。そこで、阿部はそれまでの日本の権力者が決してしなかったことをした。国民の意見を聞くことである。阿部は、大名、旗本といった有力な武士階級だけでなく、町人や農民といった下層階級の国民にまで広く意見を聞いたのである。
その時の日本人の多くは、上層、下層をとわず開国には反対であった。過激な者(下層の民衆に多かった)は武器を持ってアメリカを追い払えと騒ぎ、有力大名の中にも少なからずそう主張する者もいた。しかし、多くの者は、何かうまい理由をつけて開国要求を断るようにと主張した。だが、誰一人として、戦って勝つ見とおしを持っていなかったし、断るうまい理由も見つけられなかった。そうこうしているうちに、翌年を迎え、ペリーの再来航を迎えてしまったのである。予定より半年も早く再び日本にやって来たペリーは、幕府に解答を求めた。その時ペリーは「よい回答を得られないならば、戦争をも辞さない」と日本側を脅した。幕府はのらりくらりと即答を避けて時間を稼いだが、よい方法など無かった。1854年3月3日、ついに幕府はペリーの要求に屈指、日米和親条約に調印した。ここに260年にわたって、江戸時代の日本の国法であった鎖国が終わったのである。
この条約によって日本は、下田、函館の2港をアメリカに開き、アメリカに最恵国待遇を与えた。
1-1-3 日米修好通商条約と安政の改革 アメリカに脅されて条約を結ばされてしまったとはいえ、幕府はその後何もしなかったわけではない。阿部正弘は、ペリー来航以来の日本の弱腰外交を克服するためには、日本の近代化しかないと考え、すぐに着手した。それは阿部だけでなく、各地の先見の明のある大名達も同じであった。いくつもの藩で独自に近代化政策が行われた。それは、西洋の進んだ科学、技術、学問を学ぶための学校の開設であり、洋式製鉄所の建設であり、洋式造船所の建設であった。
中でも、幕府が長崎に開設した「海軍伝習所」は西洋式海軍創設のためにオランダから、軍艦を購入し、オランダ軍人を講師に招き、航海術、造船術、数学、物理学など広く西洋の学問、技術の習得を目指した。後にここから勝海舟を始め多くの人材が輩出し、日本の近代化に大きな役割を果上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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