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たした。しかし、残念なことに近代化政策を先導した阿部正弘はその志半ばにして39歳の若さで病死してしまったのである。阿部の死は、その後の日本の道に大きな変化を起こした。
もし阿部がその志を遂げたなら、幕末の混乱は起こらなかったかもしれないし、明治政府とは違った形での「新日本」が形成されたかもしれないだろう。阿部正弘に対する評価が低かったのは、明治新政府が日本の近代化を自分たちの専売にしたかったからである。後の最後の将軍15代将軍徳川慶喜への評価と並んで、今一度検討しなければならないところである。幕府が旧守派は、倒幕派が革新とは一概にはいえないのである。
阿部の近代化が行われている間に、アメリカは日本を本格的に開国させる準備を急いでいた。和親条約が結ばれると、アメリカは下田に領事館を置き、ハリスを初代の日本総領事として派遣した。ハリスは着任すると、幕府に通商条約の締結を迫った。ハリスの言い分はこうだった。
「イギリス、フランス、ロシアなどの列強がアジア諸国を植民地化しようと狙っている。日本も例外ではない。そうなる前に、アメリカときちんとした条約を結んでおけば、列強も無理なことはできない」しかし、そういう一方で、通商条約を結ばないなら、アメリカも強力海軍を派遣するだろうと脅したのである。
阿部急死の後、幕府の中心になったのが井伊直弼である。井伊は、大老となり国の危急時の専制的大権を手に入れていた。もともと積極開国派であった井伊は、ハリスの申し入れに従って1858年日米修好通商条約を締結した。この条約によって、日本は下田、函館のほかに神奈川(のちの横浜)長崎、新潟、兵庫(後の神戸)を開港することになった。しかし、この条約には、その他に、日本側に関税自主権が無いことや外国人や外国人居留地内の治外法権が認められていることなど、日本にとって不利な内容が含まれていた。このことが後に不平等条約として、明治政府の条約改正の苦労を生み出すことになった。また、幕府に対する批判の元ともなった。
また、この条約による急速な外国との貿易解放は、充分な用意の無い日本経済を混乱に落とし入れ、国民生活に大きな影響を与えることになり、幕府への批判を強めることになった。
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