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た。その意味で、尊王攘夷運動は、その後の日本の道を決めたといってもいいであろう。尊王攘夷運動の盛り上がりとともに、日本における天皇の偉大さを宣伝する尊王思想が形成された。その代表的人物が長州藩士、吉田松陰である。吉田の思想の基、その後の日本を担う人材が長州から多く輩出したことは、明治日本の近代的天皇制形成に大きな役割を果たした。尊王攘夷運動は、長州藩、薩摩藩だけでなく、御3家の一つ水戸藩を始め、土佐藩などでも有力となった。それらの藩の大名達は、幕府に対して、攘夷の実行を迫る一方、朝廷に接近して、幕府に攘夷の実行を命令する勅許を出させようとした。それまで、日本の政治とは離れた場所であった、京都がにわかに政治の舞台となったのである。
一方で攘夷派の下級武士達は、各地で外国人を襲い、攘夷を実行したのである。尊王攘夷運動の盛り上がりと朝廷の発言力の強まりに危機感を感じた大老井伊直弼は、大弾圧を持ってこれにこたえた。安政の大獄である。井伊直弼は、公然と幕府を批判した大名達を処罰し、幕政から遠ざけると、尊王攘夷運動の思想的指導者であった吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎らを捕らえ処刑した。しかし、この結果井伊は1860年江戸城桜田門外において、水戸藩士によって暗殺されてしまった。有名な桜田門外の変である。
コラム 天皇制 -------------------------------------------------------------------------------- 日本の天皇制を永遠普遍のものあると主張する人達がいる。しかし、天皇が実際に権力を持っていたのは遥か遠い昔で、鎌倉、室町、戦国と時代が下るとともに形式的な存在でしかなくなっていた。特に、戦国期には存在すら知らない国民が大多数を占め、織田信長ですら、学者に指摘されるまで知らなかった。彼は天皇の権力など信じず、あまり利用しようともしなかった。これは豊臣秀吉も同じである。天皇の権力を再び最大限利用したのは、徳川家康である。彼は天皇家に1万石を与え、大名なみの待遇にするとともに、積極的に徳川家と縁組を行い、自らの権威つけに利用した。
これによって、天皇家と、それに従う公家たちの生活は、やっと人並みのものになったといわれる。それほど経済的にも窮状状態にあった上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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