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のである。しかし、徳川幕府は、天皇の権力が再び大きくなることを防ぐために様々な法規や制度もつくった。ために、江戸時代を通して、天皇は形式的存在でありつづけ、庶民にとっては遥かに遠いものであり、あまり知られてもいなかった。江戸時代の国民にとっては、日本を代表する権威と権力は、公方様、つまり徳川の将軍であったのである。それを覆し、歴史の暗闇から天皇を引きづり出したのが尊王攘夷運動であり、それを担い明治の指導者となった長州、薩摩の人々である。
コラム 井伊直弼 -------------------------------------------------------------------------------- 従来、日本の歴史の中では、大老井伊直弼を尊皇攘夷派弾圧の大悪人としてきた。しかし、井伊は当時の幕府内最大の開国派であり、近代主義者でもあった。 彼は、偏狭なナショナリズムである尊王攘夷運動を日本の近代化の障害と考えていた。彼は、幕府主導による上からの日本の近代化しか、日本を欧米列強の強圧から救う道はないと考えていた。朝廷の妨害もこれへの障害でしかなかった。その意味では、維新後の明治新政府の政策とまったく同じ道を歩もうとしていたのである。
この時点では、尊皇攘夷を唱える、以後の明治の指導者よりも先をいっていたといえるだろう。その彼を大悪人にしたてたのは、明治政府の指導者たちであり、やはり、阿部正弘と同様に、近代化を自分たちの専売にしようとしたためである。その意味で、井伊直弼の再評価は必要である。
1-1-5 尊王攘夷運動の激化と公武合体政策 井伊直弼暗殺後の幕府の中心になった安藤信正は、尊皇攘夷派や朝廷と妥協を図るために公武合体政策をとった。この政策は14代将軍徳川家茂の妻に公明天皇の妹、和宮を迎えるというものだった。しかし、尊皇攘夷派これを認めず、安藤は1862年、坂下門外で襲われ、一命は取りとめたが失脚してしまった。公武合体政策は、安藤後、幕府内で発言権を増した薩摩藩主島津久光によって引き継がれ、朝廷内でも大勢を占めるに至った。幕府と朝廷の妥協が成立したかのように見え、尊皇攘夷派は危機感を抱いた。特に、尊皇攘夷派の中心であった長州藩では強硬論が台頭した。
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