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るが、その実態は決して幕府側の守旧派の集まりではなかった。組長の近藤勇をはじめ、副長の土方歳三、など隊士の大半は下級武士か、農民出身の若者であり、彼らにとって新撰組は、身分を越えて出世する大きなチャンスであった。思想的には、開明的で、土方のように、後に北海道に逃れ、函館に日本最初の共和国「北海道共和国」を建て、大統領選挙を行った人物もいた。土方に従った隊士も何人かいた。新撰組が戦ったのは、薩摩、長州であり、彼らのきわめて政治的な行動に不信感を持つ者は多かった.近藤、土方の出身地である東京の多摩地区は、明治になってからの自由民権運動の中心地でもあり、それを担った豪農層は、同時に新撰組の支持層でもあったのである.土方らの思想には、長州、薩摩と違い、天皇に対する思い入れは微塵もなかった.このことは、長州、薩摩主導によらない日本の近代化が行われたならば、今の天皇制はなかったことをしめしている。
1-1-6 尊皇攘夷から倒幕へ 尊皇攘夷の運動は各地に広がり、幕府の諸外国に対する弱腰外交への批判も強まる中で、攘夷派による外国人襲撃事件が多発した.1860年のアメリカ公使館通訳ヒュースケン暗殺事件、1861年イギリス仮公使館東禅寺襲撃事件(第1次東禅寺事件)1862年イギリス公使館焼き討ち事件(第2次東禅寺事件)であるが、その後の歴史に大きな影響を与えたのが1862年の生麦事件である.この事件は、江戸から薩摩へと帰国中の島津久光の行列(大名行列)が生麦(現、神奈川県鶴見)で、ちょうど通りかかったイギリス人3人を不敬として殺傷してしまった事件である。怒ったイギリス政府は幕府に犯人の逮捕、引渡しと賠償金の支払いを求めた。幕府は薩摩にそれを求めたが、薩摩は非はイギリス人側にあるとして拒んだ.
1863年イギリスは7隻の艦船を持って、薩摩の本拠地鹿児島を攻撃した.薩英戦争である。薩摩もこれに砲撃を持って応じたが武器の性能の差歴然で、鹿児島の町は炎に包まれ破壊された.同じく1864年、長州は、関門海峡を通過した外国船を下関砲台から攻撃した.これに対して、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻の艦船が下関を攻撃、下関戦争である.この戦争も圧倒的な外国船の砲撃によって、長州兵はわずか1時間で敗走し上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >>
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